「どうした、いきなり」
頭を下げたままの男に、信長が問う。
「相談したき議がございます」
「よい、あげよ」
要するに顔を上げろということ。
最近はそんな些細な言葉ですら省略する。
そんな信長の言葉を受け、男はゆっくりと顔を上げた。
「おまえがわしに相談とは珍しいな、成政。明日は雨か」
「さて、雪かもしれません」
信長の戯れに付き合いながらも、まったく笑みをこぼさない成政に、信長も少しは気を改めたらしい。
「して、何だ」
「ほかのかたがたは、退席願えますか?」
「よい」
近習たちが席を立つ。
部屋に二人っきりになり、しばらくしてそうして成政は口を開いた。
「かえで殿についてです」
信長の眉間にしわがよる。
成政は続けた。
「つかぬ事をお聞きしますが、かえで殿のほか、このような時を越えた事例をご存知ですか?」
「知らぬ」
「私も探しましたが、ございませんでした」
「南蛮にはあるやもしれぬ。フロイスにでも聞いてみるか」
「かえで殿の場合……」
成政がいうと、信長は黙って聞き続けた。
しかし最後になって信長は首を振る。
「ならぬ。あやつを手放してはならぬ」
「手放せとはいっておりません」
「同じことよ」
「敵の手に渡すのではありません。何の危険もありません。むしろ手元に置くほうが危険です」
「わからぬか?成政。ならぬのだ」
なぜ、とは成政は聞かなかった。
聞けば叱咤が飛ぶ。
信長を恐れてではない。
わかってわざわざ聞くのもばかばかしい。
しかし信長は違った。
特に何をいらだつでもなく、何か自分でも腑に落ちない様子で成政へ問う。
「お前が言うのはもっともだ。わしもそのとおりだと思う。だが……離してはならない気がするのだ。これが何なのか、成政、説明がつくか?」
「……いえ」
「無論、本当に帰るとなればわしも協力しよう。だが、ならぬと、そう……何なのか……」
「どういった感じなのでしょうか」
「焦り、だな。言っておくが、おなごを想うようなものではない」
おや、と成政は思った。
こうもはっきり断言されるとは思ってなかったが、やはりというところか。
「焦り……」
「大軍を目の前に……そう、あれは桶狭間だな。桶狭間のときと同じだ」
桶狭間……明日の命が無いという焦りということか。
それは確かに恋愛沙汰ではない。
あの時は結果論勝ったからよかったが、負けていれば確実に今は無かった。
領民の心は離れていき、攻め込んでくる今川勢を防ぐ事もままならない。
そのまま殺されていただろう。
確かに、成政もかえでについては焦りを感じていた。
だが帰してはならぬというわけではなく、帰さねばならぬという焦りだ。
なぜ焦るのか自分でもよくわかってる。
原因があるから、自分がこうもせかされる。
もう二度と味わいたくない思いがあるから。
成政はその気持ちにおびえているのだと、自分でわかっていた。