「もうっ!早くしないと置いてくわよ〜?」

静かな古城跡に、甲高い声が響く。
まだこれからがぐっと寒くなる一月の初旬、短い影を追いぬかんとばかりにその声の主が声を立てた。
制服の上からマフラーを巻いて、白い息を吐きながらなだらかながら険しい石段を駆け上る。
ここに来るのがたまらないというように、後で息を切らしている友達を振り返った。

「ちょ、ちょっとはいたわってよ〜」

「ダメダメ!まだ天守には上ってないんだよ」

「かえで……そんなにはしゃいでると、こけるわよ」

「うるさいわね。そのちゃんこそ、そんなに遅いと、家に帰れなくなるわよ」

かえでと呼ばれた少女がむっとして言い返した。

彼女の名前は宇秋(うしゅう)かえで。
高校一年生の三学期を迎えた頃である。
これといったこともなく、どこにでもいる高校生だ。
ただほんのちょっぴり、日本史が好きだったりする。
それも戦国時代。特に誰が好きというわけでもない。
ほんとに好きといえるのかもわからない。ただなんとなく好きなだけなのだ。

昔はここに外観五重の天守がそびえていたらしい。

――安土城。

必ず教科書には太字で出てくる人物、織田信長が建てた城。
でもその織田信長も本能寺の変で死んでしまう。
安土城はそのとき焼け落ちて、そして今まで再建されることはなかった。

かえではここが好きだった。好きな時代に、一番近い場所のような気がして。
だから新学期そうそう、親友の高倉苑美をつれてここへきた。
もちろん、かえで自身が行きたかったからだ。

前日の雨で、足元は相当ぬかるんでいる。
この石垣のみが残る安土城で雨をよけられた場所はなく、大体どこも滑りやすくなっていた。

「もう!先に行ってるね」

「ああ!ちょっとあぶないったら!」

苑美の言葉も聴かず、かえでは石段を登り始めた。
自分が好きな場所に来ているというだけで気持ちが高ぶったかえでには、
なにか根拠の無い自信があって、まったくこの体力をそぐ石段も無意味になっている。

空は晴れている。
そんな生乾きの空気の中を、かえでは思いっきり駆け上がる。

「あっっ……」

不意に、蹴る足がずるりと滑った。
下はぬかるんでいる。転べば泥まみれになること間違いない。
苑美の言うことを聞けばよかった、とかえでは一瞬のうちに後悔した。
そして本能的に両手を前に出す。

どさっっ

転んだ衝撃と手に受けた痛み。
そして自分がその石段に転んでうつぶせに倒れたことがわかった。
が、何かがおかしい。足りない。

前日は雨が降っていた。
足元は相当ぬかるんでいた。
だが、今かえでが転んだこの場所は、まったく乾いていたのだ。
手を見れば乾いているし、砂が手についた程度で、少しすりむいている。
乾いたところに転んだ?
いや、ならばそもそも転ぶわけがない。

「いった〜……――ッッ!!」

起き上がろうとしたかえでの首のそばに、金属の光が差した。
冷たい銀色のそれはよくとがれていて柄があり、よく見れば槍のようだ。

「てめぇ何もんだっっ!」

その槍の持ち主が叫んだ。
ちょっと派手な感じはするものの、服装はいたって質素なものを身に纏っている。
ただ、それでも違和感がある。
着物を着ているのだ。
袴をはいて、手に槍を持っている。
髪はちょうどポニーテールのように結ってあるがそれより短く――
――髷、というものなのだろうか。

槍だ。槍がこちらを向いている。
槍といったら刃物である。
刃物といえば怪我をする。

「いやっっ……」

「お待ちください。ちゃんと名乗ってくださらないと。あと一体どんなようでここにいらっしゃるのか……」

慌てて逃げようとしたが、背後からの声にかえでは振り向いた。
階段の右側に、穏やかな顔つきの男がいる。
こちらも着物に袴をはいている。
一瞬、こちらの男性に助けてもらおうとも思ったが、それもできない。
その男も、腰に刀を二本差している。

銃刀法違反だよ、この人たちは――かえではそう思った。

左から槍を突きつけられ、右からは刀を持った少年に問われ……かえでは動けなくなっていた。
刀を持っているなんて尋常では無い。
土を払って体を起こしたものの、立ち上がれるほど余裕は無い。

「あ〜!ダメですよ利家さん、この人おびえちゃってますよ?」

少年が手前からやってきた。やはり着物に袴で。
この場に制服でいる、かえで自身が明らかに異様に見えてきた。

まだ20にもなっていないのだろうか、幼さを残してもいるがどこか大人びたところも感じる。
少年は槍の男に笑いかけた。
すると彼はしぶしぶとその矛先をかえでから離し、なお納得いかないという顔でかえでを見つめた。

「大丈夫ですよ。ところで、お名前をお聞かせくださいますか?」

少年が微笑む。
同い年かそこらという少年に微笑まれた。
クラスの連中なんかそんなことはしないのに。
思わずかえではドキッとした。

「又左〜!ここにいたのかぁ。約束忘れてたとか言うなよ?」

「あ……?サル!」

後ろからたったったと軽い足音がして叫び声がした。

ここにいる三人とは少し違う、どちらかといえば田舎臭い顔をした男が走ってくる。
丸い目をしていて、この槍の男が「サル」とあだ名するのもわかる気がした。

「悪ィ。でもよ、ほれ……侵入者だ」

槍の男は顎でかえでをさす。
「サル」はかえでの方をまじまじと見て首をかしげた。

「御屋形様は何か言ってたか?」

「さて、初耳だが?」

微笑んでいる少年の後ろから声がした。

渋いその声の主はやはり渋い男で、かえでの脳裏にダンディという文字が瞬時にうかんだ。
しかし違ったのは、その場にいた皆が頭をたれたことだ。
どうもこの男が「御屋形様」らしい。
着ているものも比べると高価なものなのかもしれない。
わりと発色のいい赤の着物を身に纏っている。

「こやつは何者だ」

「御屋形様」が問う。
二番目に声をかけた、穏やかな顔つきの男が口を開く。

「申し訳ございません。ただ今取り調べておりました」

「よい、わしが聞く」

かえでの眼の前にまで歩み寄り、「御屋形様」はかえでに問う。

「名乗れ」

名前を言えということなのだろうが、あまりにも端的だ。
しかし驚いていても仕方が無い。
かえではこわばる身体を振り絞って声を出した。

「宇秋……かえでです……」

「……何しに来た」

息抜き、だったのだが。
どうもそんなことは通じそうに無い。
――じゃあなんていえばいいの?
かえでの頭が煙を上げそうになる。

「御屋形様、きっと乱波(らっぱ)じゃあないとおもいますよ」

「サル」が言う。

「この娘の着物、どう見ても近隣諸国のものではないし、乱波にしちゃぁ無防備なかっこうですよ。大体おいらたちが何者かわかってないみたいですし」

意外とよくわかってるなぁ、とかえでは思った。
感心していると、「サル」はな?とこちらに笑って見せた。
人懐っこい笑顔だ。
かえではうなづかずに入られなかった。

「よかろう。そんなにこの娘が気になるか。サル、お前が面倒見ろ」

ははっと「サル」。
ずいぶんと忠実なんだなとかえでは感心していた。

「蘭!仕事だ。ついて来い」

「御屋形様」が声をかけまた奥のほうに姿を消す。
蘭と呼ばれたのはあの若い少年で、元気よく返事をしたあと「御屋形様」に付き従うように姿を消した。

その姿を見送りながら、かえでは重大なことに気がついた。
今までこの回りの人物に気をとられて気づかなかったのだが、すっかり周りの景色が変わってしまっている。
何より古い石垣のはずがまるで新しいものになりかわっている。
そして足元は不安定な春泥であったのが、今では綺麗に整地された乾いた土になっている。
まさか、と思ってかえでは視線を空へと移した。

五重に重なる天守がそびえている。

あの特徴的な八角形の層が、かえでの目に飛び込んできた。

「うそ……」

「ん?……おい、どうした?」

「サル」がかえでに問う。
槍の男も穏やかな顔つきの男もこちらをうかがっている。

本物は見たことがない。
何しろ実在しないのだから、いつもどこかのえらい学者さんがおこしたイラストをみて、
ああこんな感じの城だったんだろうなんて創造を膨らましていた。
でもその創造よりも立派で確かな天守がそこに立っている。

髷を結った男たち、そしてこの天守。
かえでの"まさか"はまだ続いている。

「ねぇ、あなたたちの名前を教えて」
かえでは初めてまともな口を利いた、と自分で思った。
怪訝そうな顔をして一同が見つめている。
それでもかえでは必死だった。
この人たちの名前を聞けば、きっと今自分がある状況を理解できる。

知らないうちにかなりまじめに、真剣な、そして必死な顔つきをしていたのだろう。
あの穏やかな顔つきの男がにこりと笑って言った。

「そんな怖い顔をなさらないでください。ちゃんと名乗りますから」

そう言って一つ律儀に礼をしてこちらへ向き直った。

「佐々成政と申します」

「佐々……成政……さん」

かえではその名を聞いてびくりとした。
佐々成政といえば猛将として有名な男だ。
戦国時代に生まれ、柴田勝家らと北陸へ向かった男だ。

「私の名前が、なにか?」

成政が問う。何かどころではない。

「けっ……本当にわけのわからねぇ女だな。こんなやつの面倒、お前見れるのか?」

槍の男が言う。失礼ですよ、と成政。
その言葉もまともに受けず、槍の男はつっけんどんにかえでに言った。

「ったく……オレは前田利家。槍の又左っつったほうが通りはいいか?」

前田利家。以前テレビでやっていたのをかえでは思い出した。
五大老にまで上り詰めた、加賀百万石の祖……いろんなことをきいたことがある。

じゃあまさか。この利家という男が先ほどから「サル」と呼んでいる男は……。

「おいらは秀吉。羽柴秀吉様だ!」

秀吉……もうわざわざ考えるまでもない。

私は、私は――

頭がくらっと白くなって、かえでは意識を失った。